1964年の東京オリンピック
~高度経済成長時代と歌謡曲
2021.07.16鈴木啓之
2005年に公開された大ヒット映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台となったのは1958年の東京。翌々年の続編では1959年が描かれ、さらに2012年公開の第3作は、それから5年後の1964年の物語であった。緻密な時代考証とSFXでかつての生活が再現されて、いわゆる昭和ブームに拍車をかけたわけだが、あくまでもフィクションであるから、美化される部分があるのは当然のこと。リアルタイムで当時を知る世代よりは、60年代に憧れを抱く後追い世代にとっての夢多きエンターテインメント作品であったことは事実だろう。高度経済成長期にあたる、明日に希望を持てた時代は、物質的には今よりずっと貧しくとも、精神的なゆとりがあったのは確かだろうと察せられる。そのことを証明してくれる最も判りやすい事象のひとつが、当時流行っていた心豊かな歌謡曲である。
それまでのSP盤に替わり、7インチシングル、通称・ドーナツ盤が主流となってゆくのは、岩戸景気と呼ばれた50年代の終わり頃。1959年には「日本レコード大賞」が制定され、第1回は水原弘「黒い花びら」が受賞する。レコード会社の専属作家ではなかった永六輔と中村八大の作による新感覚の和製ポップスは、歌謡曲の新時代を象徴していた。そして迎えた黄金の60年代。アジア初の大会となる1964年の東京オリンピックへ向けて国を挙げての盛り上がりを見せる中、歌謡界も活況を呈してゆく。
「平凡」や「明星」といった当時の芸能雑誌を開くと、どのページにもキラ星のごときスターたちが躍動している。ロカビリーの全盛期にスターとなった坂本九や守屋浩に、映画スターでもあった吉永小百合や倍賞千恵子、島倉千代子や北島三郎ら演歌系歌手に、歌謡コーラスの旗手・和田弘とマヒナスターズなどなど百花繚乱。みな次々と大ヒットを飛ばしていた。
日本のテレビ契約者数が1000万を突破した1962年、フランク永井「霧子のタンゴ」や、石原裕次郎「赤いハンカチ」といった、大人向けのムード歌謡がヒットする一方で、弘田三枝子「ヴァケーション」、中尾ミエ「可愛いベイビー」など、若手スターによるカヴァー・ポップスも人気を博した。その振れ幅の大きさが歌謡曲の醍醐味でもある。作家陣も、作詞家では横井弘、星野哲郎、岩谷時子ら、作曲家では吉田正、遠藤実、いずみたく、宮川泰ら、実に層が厚い。
オリンピックが近づくにつれ、全国的に流行ったのが青春歌謡だった。1961年に「潮来笠」でデビューした橋幸夫が「若いやつ」や「恋をするなら」などヒットを連発してスター街道を驀進する中、1963年に「高校三年生」でデビューした舟木一夫が一躍青春歌謡ブームを牽引することに。「君たちがいて僕がいた」は後に吉本新喜劇でギャグのフレーズに使われるほど、タイトルが印象深い。1964年に西郷輝彦が「君だけを」でデビューすると、橋・舟木・西郷は"御三家"と呼ばれて、大人気となる。1963年に「美しい十代」でデビューした三田明を加えて"四天王"と呼ばれることもあった。
その頃のレコード界の大きな変化は、モノラルからステレオ録音が主流になったこと。64年前後の各メーカーのレコードジャケットには、"ステレオ"の文字が大きく躍っている。オリンピックに因んでか、東京が歌われたヒット曲も多く、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」や新川二郎「東京の灯よいつまでも」はその代表格。60年代後半に頻出する全国津々浦々のご当地ソングに先鞭をつけた。
オリンピックの後にはビートルズをきっかけにしたグループサウンズのブームが訪れ、70年代に入ってからはアイドルの人気が確立するなど、大衆音楽は時代とともに常に変化を遂げてゆくわけだが、60年代に流行った歌謡曲はカヴァーやカラオケなど、今でも時代を超えて愛され続けている。優れた作詞家と作曲家たちが紡ぎだし、光輝くスターたちが歌った珠玉のメロディーの数々には、あの頃の日本人が抱いていた明日への夢と希望が詰まっているのだ。「歌謡ポップスチャンネル開局25周年記念 聴きたい歌いたい名曲300選!」(2021年7/24~25放送)の『昭和青春歌謡コレクション』コーナーでぜひ実感してほしい。
(文=鈴木啓之)